- まず中国入国まで
- 10年余り中国を混乱に巻き込んだ文化大革命はすでに数年前に終わっていましたが、まだまだ中国は一般的に旅行するには、少し高いハードルがありました。しかしその規制もだんだん緩やかになり、80年代からは一般的な観光旅行も可能になりました。
しかし徐々に緩和されているとはいえ、中国に行くためにはまず、相手から来てもいいよという「招聘状」が必要でした。旅行会社が募集したものでも、あくまでも友好のための訪中団というグループを作る必要がありました。そして、われわれが結成したのは「中国鉄路訪中視察団」という物々しい名前でした。しかし実態はただの汽車の写真を撮りたい者の集りです。
中国語の「視察」は、日本語より重い意味で「上級のものが下級のものの仕事ぶりを見る」というなので、中国側は内心穏やかでなかったか、あるいは気にしなかったのかは分かりません。
こんな状況だから撮影目的での個人旅行などは絶対に不可能です。宿泊できるのも、あらかじめ決められた大きなホテルで、街の安宿では外国人を宿泊させません。まだまだ外国人に接触すると「スパイ」と疑われ、つるし上げをくい、自己批判させられた文化大革命の時代の記憶が生々しく残っていたようです。
行けるのも「対外開放地域」というあらかじめ決められた観光地ばかりで、それ以外の地域は、原則的に不可でした。それに外国人の旅行団体には必ずガイドが付きました。それでも一人で街を散歩して、駅で写真を撮るくらいの自由行動はできました。
- 撮影場所はどこ
- いまでこそ、中国でも撮影の名所とよばれるところがあり、たくさんの方が訪問していますが、このときの撮影場所は、どうしてそこが選ばれたか分からない様なところが多くありました。もっとも見渡す限りの平原では、どこが良いかわかりませんし、どこでもあまり変わらないということがあったのかもしれません。それでもわれわれは、「はい、ここで撮影です」と言われれば、そこしかなく。それでもそれなりに楽しく撮影しました。
- 昼の食事も温かいものを
- 朝ホテルを出て、郊外に撮影に出かけます。観光地でもなんでもない田舎に行くので片道一時間とかかります。行った先はなにもないところなので、食事をする場所はありません。したがって昼食のためにはまたホテルに戻るということになります。食事の時間を含めて戻ってまた来ると3時間のロスになるし、メンバーはメシより汽車が好きな面々ですから、昼抜きでよいからここで撮影するという意見がほとんどです。だれもが思ったことは「汽車はもう撮影出来ないかもしれないが、メシは後でも食べることができる」です。しかしこれが全く理解してもらえません。中国人は日本人の様な冷えた弁当やおにぎりみたいものは基本的に食べないし、ホテルでの昼食を予約しているのに、お客さんに昼食を食べさせなかったということになったらガイドとして不手際面子丸つぶれになってします。しかたがなく、我々は泣く泣くホテルに戻って暖かい食事をとることになりました。
- 機関区では友好昼食会
- あくまでも友好訪中団ですから、機関区(機務段)訪問も友好のためということなります。したがって機関区では幹部との昼食会がありました。これもまたゆっくりとした食事会で、機関区の食堂の外では機関車の汽笛が鳴っているし、ドラフト音も聞こえます。食事はそれなりに美味でしたが、心そこにあらず、しかし非礼は許されず、我々の笑顔は妙にぎこちなかったことでしょう。
- ガイド氏には理解不能の行動
- 当時の中国には、職業選択の自由がありませんでした。大学の卒業生は国家が仕事を配分していました。我々のガイドをした青年も、大学で日本語を勉強したので、急に増加した日本人観光客の相手をするため配置された人でした。本当は貿易の仕事をしたいと話していました。
中国東北地方はあまり観光資源がないため、訪れる日本人は、昔を懐かしむ老人が多い様で、鉄道撮影の団体はまだ少数派でした。彼らにしてみれば鉄道の写真をとる我々の行動は全然理解できない様でした。しかし「おくれている物」、「消え去るべき物」蒸気機関車を喜々として追いかける我々の行動は、ふだん決まりきった行程を案内する普通の観光旅行とは異なり、こんな人たちも面白いなと逆に観察されてしまいました。
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