
蒸気機関車全盛 1981年のハルピン駅
ハルピン(ハルピン、哈爾浜)は黒竜江省の省都で、中国北部における経済・文化・交通の中心都市です。1981年当時のハルピン駅は、文化大革命(1966年~1976年)は終結したものの、その後に掲げられた「四つの近代化」政策の影響は、東北地方にはまだ限定的でした。鉄道の動力も依然として蒸気機関車が主流で、ディーゼル機関車はごくわずかしか見かけない状況でした。(1981年5月撮影)
ハルピン駅




ハルピン駅は、ロシア帝国が建設・経営した東清鉄道の駅として、1899年に開業しました。1981年当時のハルピン駅は、中国鉄道部の直属組織で、中国東北地方北部を管轄する「ハルピン鉄路局」に所属していました。同局は、京哈線(北京~ハルピン)、濱洲線(ハルピン~満洲里)、濱綏線(ハルピン~綏芬河)、哈図線(ハルピン~図們)など、複数の主要幹線区間を管理しており、これらの路線はいずれも旅客・貨物輸送における重要幹線でした。当時のハルピン駅は、中国北部における鉄道交通の一大拠点として大きな役割を果たしていました。
ハルピン駅駅前


駅前には、路面電車とトロリーバスが乗り入れていました。路面電車は1927年に開業し、最盛期には8路線・総延長42kmの規模を誇っていましたが、1987年に全廃されました。トロリーバスは1958年に開業し、最盛期には9路線が運行されていましたが、2008年にこちらも全廃されています。
ハルピン駅待合室と列車到着




第一待合室は、1階が通勤列車の待合室として使われ、2階が満洲里(内蒙古自治区のロシア国境の町、ハルピンから935km)、加格達奇(内蒙古自治区、719km)、佳木斯(黒竜江省、506km)、北安(黒竜江省、333km)、吉林(吉林省、275km)方面行き列車の乗客用待合室となっていました。通勤列車といっても、当時はほとんどが蒸気機関車による運行でした。駅のプラットフォームは非常に低く、屋根があるのもごく一部分だけで、降りた乗客は出口へと急ぐ光景が見られました。
旅客列車を牽引してきた解放703号


機関車の番号は基本的には戦前から引き継がれています。解放703号は1937年の日本車両製で、当初はミカコ16702号と呼ばれましたが、1938年の車両形式称号改正でミカイに統一され703号になりました。当時の東北地方(旧満洲地区)には、南満洲鉄道の路線(社線)と満洲国国有鉄道の路線(国線)がありました。ただし運営は国線も含めて南満洲鉄道が受け持っていました。その後、1945年以降はソ連軍管理、中国東北鉄路時代を経て、1950年代以降は中国鉄道部に引き継がれ、解放型(JF形)の機番体系に再編され、703号はそのまま「解放703号」として番号を維持し続けました。
ハルピン駅構内に揃う人民形




当時、旅客列車を主に担当していたのは人民形(RM形)蒸気機関車でした。人民形は、中国が戦前に使用していたミカロ形と、戦後にその設計を基に改良・国産化した勝利6形(SL6形)で得た技術を踏まえ、さらにソ連P36型蒸気機関車の設計思想の影響を受けて独自に開発された高速旅客用機関車です。1958年から1966年にかけて258両が製造され、このころもハルピン地区では旅客用の主力機関車として活躍していました。
駅構内を行き来する蒸気機関車たち






駅構内では、戦前に製造された機関車をはじめ、戦後に登場したさまざまな形式の機関車が、旅客列車、貨物列車、さらには入換作業用として忙しく走り回っていました。そのほか、現在ではまったく見ることができなくなった三輪トラックなども、駅構内に出入りし、当時の独特な雰囲気を形作っていました。
霽虹橋から見たハルピン駅








霽虹橋は、南北に分断されていた市街地を結ぶために建設された跨線橋で、ここからはハルピン駅構内の様子を一望できました。クロッシングやダブルスリップなどが配置された複雑な線路配線が広がり、多くの列車の発着や入換作業のさまざまな形式の機関車が頻繁に通過する姿を見ることができ、非常に魅力的な場所でした。
蒸気機関車終焉の予感 ディーゼル機関車

ほとんどが蒸気機関車でしたが、すでにディーゼル機関車も導入されていました。しかし見かけたのはこの1両だけでした。この後時代は急激に変わっていき、蒸気機関車は幹線から姿を消しました。いまディーゼル機関車も電化により去ろうとしています。その後ハルピンを訪れたことはありませんが、当時の面影はほとんど残っていない様です。