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詹天佑記念館と青龍橋駅

詹天佑(日本語読み:せん てんゆう,中国語拼音:Zhan Tianyou 1861—1919)は中国近代を代表する鉄道技術者で、、各地の鉄道建設を行いました。自ら設計して総指揮をとった京張線の八達嶺に記念館があり、青龍橋駅には銅像と墓所があります。(撮影:2007年及2026年)

詹天佑記念館

詹天佑記念館 入口1 詹天佑記念館 入口2

北京北駅から高速鉄道で25分ほどで八達嶺長城駅に到着します。この駅は地下深くにあるため、駅を出るまでに長いエスカレータに乗り10分以上かかります。駅を出たところすぐに詹天佑記念館があります。

詹天佑像

詹天佑記念館 詹天佑像1 詹天佑記念館 詹天佑像2 詹天佑記念館 詹天佑像3

詹天佑は清朝の咸豊11年(1861年、万延2/文久元年)に広東省で生まれました。数え年12歳のとき清朝初の公費留学生に選ばれアメリカに渡り、のちにイェール大学で土木工学、特に鉄道工学を専攻して卒業しました。帰国後は海軍関係の教育機関などに勤務し、光緒14年(1888年、明治21年)から中国鉄道公司で技術者として津沽鉄路(天津~塘沽)、津楡鉄路(天津~山海関)、新易鉄路(高碑店~易県)などの建設にかかわりました。その後京張鉄路(北京~張家口)の建設責任者となり、外国借款や外国人技師に頼らず、総て中国人みずから建設するとしました。この鉄道は八達嶺の山岳区間を経由するために多くのトンネルと橋梁の建設が必要でしたが、無事宣統元年(1909年、明治42年)に開通することができました。さらに粤漢鉄路(広州~漢口)と川漢鉄路(成都~漢口)の建設にたずさわりましたが病気のため民国8年(1919年、大正8年)に死去しました。

京張線ルート案

詹天佑記念館 京張鉄道ルート案1 詹天佑記念館 京張鉄道ルート案2

この区間を越えるために多くのルートが検討されましたが、最終的に3案が残りました。第1案は「豊台から永定河の渓谷に沿い、三家店を経由して沙城に至る」というものですが、沿線に断崖絶壁が多く、多数のトンネルを掘削し、橋梁を架設する必要があるため、工事が非常に大規模となることが分かりました。第2案は「豊台から南口を経て関溝を通り、八達嶺を越えて沙城に至る」というものです。第3案は「昌平から徳勝口へ迂回し、延慶を経由して沙城に至る」というものですが、八達嶺を迂回できるものの、路線が長すぎるうえ、非常に多くの岩石の掘削が必要ということがわかりました。第2案が、青龍橋駅でスイッチバックがあり輸送能力に制約があるものの、当時の予算と工期という条件のもとでは、最も理想的な案であるとして採用されました。

京張線の建設

詹天佑記念館 青龍橋駅 詹天佑記念館 青龍橋駅のスイッチバック
詹天佑記念館 五桂頭山トンネルの機関車 詹天佑記念館 工事列車

京張線は光緒31年(1905年、明治38年)から3つの工区に分けて建設されました。そして4年後の宣統元年(1909年、明治42年)に予定を前倒しして完成しました。八達嶺越えには、全長約1,091メートルの八達嶺トンネルと、青龍橋付近のスイッチバック式折返し線が設けられました。

京張線の機関車

詹天佑記念館 京張線 唐山工廠製2-6-0テンダー機関車10号 詹天佑記念館 P.M.B.L. 2-6-2タンク機関車
詹天佑記念館 I.P.K.R. シェイ式機関車28号 詹天佑記念館 京張線 0-6-6-0マレー式機関車23号

初期の京張線で使用された機関車の写真が展示されています。軸配置2-6-0テンダー機関車10号は、中国の唐山工廠の製造です。サイドタンクにP.M.B.L.と描かれた2-6-2タンク機関車は1909年アメリカのボールドウインの製造です。P.M.B.L.は、Peking–Mentougou Branch Line(北京-門頭溝支線)で、西直門から三家店などを経由して門頭溝まで結んでいた石炭輸送用支線です。3シリンダーのシェイ式機関車28号は1909年のアメリカのライマ社の製造でI.P.K.R.の意味はImperial Peking–Kalgan Railwayで管弁京張鉄路をあわらします。Kalganは張家口を表す当時の表記です。0-6-6-0マレー式機関車23号は1907年にイギリスのノースブリティッシュ社のクイーンズパーク工場で製造されました。

青龍橋駅

青龍橋駅1 青龍橋駅2
青龍橋駅3 青龍橋駅4
青龍橋駅5 青龍橋駅6

青龍橋駅の駅舎は創建当時のおもかげを残しています。青龍橋車站の文字は京張鉄道の会辦をつとめた清末から中華民国初期にかけて活動した官僚・鉄道行政家である関冕鈞(1871-1933年)の題字です。現在別ルートの迂回線が本線となっているため、この駅は旅客取り扱いは行っておらず、北京市郊鉄路S2線列車の折り返しに使われているだけです。2026年現在柵があり駅に入ることはできませんでした。展示されている機関車は軸配置2-6-0のテンダー機関車38号で、京奉鉄道で使用されたのち集通鉄路熱水賓館で保存されたのち2025年に、ここに運ばれました。直接京張鉄道とは関係がありません。

詹天佑像と墓所

詹天佑像と墓所1 詹天佑像と墓所2

駅構内には詹天佑像と顕彰碑、像の背後の階段を上ったところが詹天佑と夫人の墓所になっています。顕彰碑は中華民国8年(1919年、大正8年)に当時の中華民國北洋政府の大総統である徐世昌自身が撰述・揮毫したもで、詹天佑の略歴と業績をたたえたものです。詹天佑像は民国11年(1922年、大正11年)に建てられました。像は日本人彫刻家の建畠大夢の制作によるものです。墓所は1982年にこの地に移転して整備されたものです。2007年に訪問したときは、墓所の前まで行けましたが、現在は駅構内に入れないため遠くから眺めるだけです。墓所の前では鉄道職員がカラオケをやっていました。