
国鉄真岡線
真岡線の旅客列車は戦後初めて量産され現在に至る液体式気動車の基本形となるキハ10系が登場した昭和28年以降にディーゼル化されました。そのうちのキハ45000形(のちのキハ17系)が使用されました。のちには準急も登場し「つくばね」(後に急行「つくばね」)がキハ58系で運転されていました。貨物列車は、沿線の農産物や茂木の専売公社工場(現JT)の輸送があり、蒸気機関車は水戸機関区の担当で昭和20年代はのC10がそして最後はC12によって運転されていました。

国鉄時代の真岡線です。1987年(昭和62年)1月は民営化直前で、キハ45が運転されていました。真岡線は下館~茂木間ですが、小山~茂木間の列車も半分程度ありました。1987年1月撮影です。この年の4月にJRになる直前です。駅の東側も小山機関区のC50形が入換を行っていた頃とかわらない倉庫が残っていました。

下館駅の到着は水戸線の水戸方面と同じホームでした、茂木方面は進行方向が逆になり、真岡線に入って行きます。

行き先板は、具体的な「小山-茂木」ではなく「真岡線」でした。省力化で行き先板を交換する手間を省いたためではなかったかと思います。

走っている気動車はキハ45系ですが、真岡駅の側線にはキハ20系が留置されていました。すでに貨物駅営業は廃止されていますが、貨物建屋にはトラックが止まっています。

西田井駅は、これより前の時代の駅舎の風情そのまま残っていました。駅舎と離れたところにある便所、枕木を用いた柵、青地に白抜き文字の駅名板、木で作った改札口など、昔のままです。

いつも行き先は「七井」駅でした。この写真を撮影した1966年(昭和41年)12月、まだ駅長さんがいる有人駅でした。おそらく駅での手作りの成田山初詣募集の立て看板なども建っていて、やはり無人駅とは違い活気があります。


とても広い駅構内でした。列車編成も長く、上り下りの交換も行われていたので、下り側のホーム(左側)にも待合室がありました。側線には貨車がたくさん留置されています。信号は腕木式で、タブレット閉塞、ポイントは駅本屋建屋から長いケーブルにつながって人力で転換するものでした。


1971年(昭和45年)6月には、まだキハ17形が運行していました。下りホームは使われず列車交換の出来ない駅になっていました。キハ17形は元キハ45000形で、便所付片運転台のものでした、昭和30年の真岡機関区支区にはキハ45020~28、89、127が配置されていました。1984年(昭和59年)11月には、首都圏色のキハ20系2輌編成に変わっていました。下りホームもますます荒れて雑草が生え放題です。



1966年(昭和41年)頃の七井駅前は、まだ鉄道が町の中心的な交通手段でした。駅前には左右に建物が立ち並び、左手には商店が、右手には黄色い看板に白い円、その中に赤く「通」と書かれた芳賀通運の営業所がありました。建物の前にはトラックが停まっており、当時の物流のにぎわいを感じさせます。 芳賀通運は、日本通運の地域系列会社であり、戦前に制定された「通運事業法」に基づき「通運免許」を取得した企業です。国鉄駅構内において、国鉄貨物の取扱指定業者として営業しており、駅と地域を結ぶ物流の重要な拠点となっていました。駅前通りの先にも商店が並び、地域住民は日常の買い物をこれらの商店で済ませるのが当たり前の時代でした。しかし時代が進むにつれて鉄道輸送の役割は縮小し、1984年(昭和59年)11月には、駅前の運送会社や商店の建物は残っていたものの、すでにすべて閉店していました。駅前はかつての活気を失い、駅が地域輸送の中心であった時代は過去のものとなっていました。さらに2003年(平成15年)3月には、駅前の建物群もすべて撤去され、長年町の顔であった光景は完全に姿を消しました。

1984年(昭和59年)には、駅舎が改築されていました。まったく新しく建てるのでは無く老朽化した部分を簡単に直したという感じです。このころ各駅とも改築が行われ、どちらもなんとも味気ない特徴のない駅舎になりました。廃止対象の赤字ローカル線になっていましたが、地元ではなんとか路線を存続させようという運動が行われていて、地元協議会の立て看板が立っていました。その後この駅舎は不審火で全焼してしまい、七井駅には駅舎が無い時期が続きました。

市塙駅も同じような感じの駅舎になっています。ネガで写真を探しても同じような駅舎でどれがどの駅かわからないこともありました。


終点の茂木駅はそれなりに大きい駅です。1974年(昭和49年)の駅舎は、おそらく七井駅や市塙駅などと同じ時期に建築されたと考えますが、まだ駅前広場は舗装されていません。1984年(昭和59年)には同じように改築されていました。

茂木駅は終点としての大きな構内を持っていました。現在の配線とあまり変化がない気がします。ただし転車台はありませんでした。

未成線の長倉線が延びている方から見た茂木駅は、1975年当時は貨物扱いをしていたので貨車も見受けられます。蒸気機関車のあとはDD13が貨物を引いていました。


1969年(昭和44年)に益子駅付近で信号待ちをしているときに、偶然通過したC12牽引の貨物列車です。真岡線で蒸気機関車による貨物列車を見たのはこの1本だけした。2003年(平成15年)の同じ場所です。


車で追いかけて、当時の益子~西田井間(現在の北山駅付近)で追いついて撮影した1枚です。同じ場所で2003年(平成15年)に撮影しました。踏切が第四種の踏切注意の看板だけから第三種の遮断竿付に変わっています。カメラの解像度が悪いのは残念なところです。